鳥カゴの中はいつも空っぽ

たとえば空が感動的に青くてもココロの穴はふさがらない

昭和のにおい

押入れの上の天袋。何かに乗らないと届かない上に、奥が深い。最悪に使いにくい収納だと思う。というわけで奥の方に入れた物はもう何十年もさわっていない。それを思い切って出してみた。ベルベットの表紙、ずっしりと重いアルバム。その中に興味深い写真があった。

1枚目の写真の裏には「聖火 大手前を行く」というタイトルと、住所と名前が書かれていたので、写真コンクールに応募したのかもしれない。

1964東京オリンピック

1964聖火ランナー

父は写真撮影が趣味だった。Nikonの一眼レフとレンズ、重い三脚、贅沢な趣味。プリントした時はもっと鮮やかだったのか、それとも初めからセピアだったのか、今となっては分からない。でも、このセピアカラーが昭和の色のような気もする。子供の頃、明治生まれのおじいちゃんを「昔の人」と思っていた。今となっては昭和生まれの私は「昔の人」だね。

 

好景気に乗っかって

1970年、万国博覧会が開催された。地方から親戚が来るたびについて行ったのだが、あまり鮮明には覚えていない。ただ人がいっぱいいたとか、不思議な形の巨大な建物があったとか、その程度。その年の7月、お引っ越しをした。抜けるような青空だった。

セミの抜け殻

 お引っ越しと聞いて、踊り出したいくらいテンションが上がっていた。幼稚園にはそのまま通うことになっていたので、辛い別れもなく、とにかく嬉しいイベントだった。期待に胸を膨らませて、車から降り立った私は、自分の想像とはかけ離れた光景に唖然とした。そして聞いた。「ゾウさんとキリンさんはどこで寝るの?」母の顔が一瞬こわばったようにみえた。

動物大好きな私はゾウさんとキリンさんと一緒に暮らしたい、と常々母に訴えていた。母は「お引っ越ししたらね〜。」と、にごしていた。そう。母はやんわり断っていたのだ。幼い子供に分かるわけがない。言葉の通り、引っ越したらゾウとキリンと一緒に住めると信じていた。だから、引越しと聞いて一人でワクワクしていたのだ。しかし、目の前の建築物にはどう見てもゾウやキリンが住むスペースなどない。

 

そんなやりとりがあったなんてまったく知らない父は、「ゾウさんとキリンさんは無理やなぁ。」と笑った。あまりのショックに処理落ちして無言で立ち尽くす私に、父は構わず喋り続けた。父も普段よりテンションが高かった気がする。それもそのはず、格子の引き戸を開けた中は、カウンターと丸椅子が並ぶ“お店”だった。両親はここで居酒屋を始めることに決めたのだった。「どうや?ここで店するんやで。旨いもん作ってお客さんに食べてもらうねんで。」

「イヤや、こんな家あかん、イヤやイヤやイヤやーーーーーーーーー!

小さい体を震わせて、思いっきり泣き叫んだ。

ゾウさんときりんさん

 やっぱり大人は嘘つきだ。世の中の大人たち、お父さんお母さん、どうか子供にいい加減な返事をしないであげてください。ココロにキズが残ります。

 

 

この日から私はお店の子になった。お店の子でいた間はそれが普通だったから、特別苦労したとか辛いと感じたことはなかった。でも、大人になって振り返ると、過酷な日々を過ごしていた気がする。